推しを「食べる」ということ

中華料理がまともに
食べられなくなった
時の話をします。

中華料理が食べられない

今では食べられるのですが、
一時期「キングダム」
輪虎先生の沼にハマっていた時は

本当に中華料理に手が出せなく
なりました。

何を言ってるんだ?
ってなるかもしれませんが、
やっぱり中華の武将と

中華料理が同じ中華
ってことでかぶさって

なかなか食べるにも
料理するにも
推しを彷彿させるから

なんだか苦しくて
食べるのを辞めてしまう
んです。

これ、何故起こるのか
考えてみました。

食べることは分解すること

もうこれに尽きる
と思うんですが、

食べるってのは
噛み砕く動作を
することなので、

やっぱり固形の、
形の決まったものを

「分解する」って
ことに繋がると思ってます。

しかも自分で分解した
ものを自分の体の
中に取り込むってことです。

自分でその食べ物を
加工して、噛んで、
体の中に流し込む。

分解するだけじゃなくて
自分の体の中に
「受け入れる」ってことが
必要なわけです。

さらに、「受け入れる」
のみならず、それと
自分の体とが

「混ざる」

ってことを最後に体感する
ことになります。

食べること一つ
とってみても、
これだけのことを
私たちは普段やっています。

推しを分解したくない

やっぱりこの「食べる」
ってのはある程度
信頼と安心が無いと
やりずらいことなので、

中華料理と推しとが
重なっている時の辛さが
分かるかと思います。

まだまだ推しを
消化したくないし、
できないなーって
いう思いがあって、
食べられなかったわけです。

消化したら消えるし、
私と混ざり合ってしまったら
推しが推しでなくなる…

そんな感じがして
推しを彷彿させる
中華料理が食べられませんでした。

だって、私の体の中
で消化されていくんですよ。

なんかすみません…
って気分になるじゃないですか。

時間が分解してくれる

中華料理が食べられなかったのは
分かるけど、

それならどうやって
今食べられるようになったの?

って思うかもしれませんが、


これに関しては今のところ、
単純に時間が経った
からだと思ってます。

時間が経って、ある程度勝手に
推しと私が混ざって
きたってのがあります。

生活しながら
推しのことを考えている
わけなので、

もろもろの現実と
推しとが混ざってきて
それがすなわち自分と
混ざってきて、

自ずと受け入れられる
ようになった、

消化できるようになった、
っていうのがありますね。

結局は時間が消化を
促す、ってだけの
話なんですが、

まあ、でも
時間が経つってのは
「分解される」
「消化される」

ってところと
繋がってる感覚が
立体的になってきたので

それが一つ気付きですね。


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