アニメ キングダム4期
「貂の存在」への感想です。
原作漫画では36巻の
第386話と第387話のところです。
※ネタバレご注意ください。
河了貂が凱孟将軍の前で語った夢に
触発されて、色々思い巡らせましたので
そこのところを共有します。
一番最初に思ったのは、
なんだかすごくワクワクするなー
ってことです。
凱孟将軍のとりまきが
びっくりしてるものだから
釣られて驚いたのかなー
とか
戦場に「女性的な幸せ」を
求めるのが無謀なことなのに
頑張ろうとしているからかなー
とも思ったんですが、
いや、なんだかそれだけじゃないぞー!
という感じがしました。
なぜこんなに私はワクワクさせられたのか?
信が大将軍の夢を語っていた時とは
また違うタイプの高揚感でした。
先に結論を言うと、
信が夢を叶える仕方と比較して、
ある意味「真逆」の方法で
果たされる夢だと思ったからなんですが…
どういうことなのか、
じっくり見ていきます。
河了貂の幸せとは?
まずざっとストーリーのおさらいをします。
魏国にある著雍(ちょよう)を落とすための
戦いで、河了貂が敵に捕まります。
捕虜となった河了貂は
敵軍の将軍である凱孟(がいもう)に
呼び出され、
女性の身でありながら
戦場にいるのは何故なのか、
戦場にいるからには
とてつもない欲望を持っているはずで、
その欲望は何なのかを質問されます。
それに対して河了貂は、
信が夢を叶えることを願っている、
と言いました。
でもその後に、それだけではなく、
河了貂自身が信と一緒に
「幸せになる」ことが夢でもある、と
力強く告げました。
以上が概略です。
ここでまず初めに
立ち止まって考えたいのは
河了貂の言う「幸せ」が
何なのか、というところです。
それはこれまでの河了貂が
どういうところで幸せそうにしていたか
を振り返ると見えてきます。
これまでの河了貂に対する印象として
まず思い浮かぶのは、
家事全般が得意で家庭的な幸せ
を大切にするキャラだな、ということです。
天下を取るとか国家規模のデカいもの
を求めるのではなくて、
身近な人たちとワイワイ話し合ったり
食べたり、飲んだり
そういう等身大の喜びを
求めていたように思います。
ここらへんが河了貂の
「幸せ」だったかな、と。
居心地のいい場所を整えて、
みんなが喜んでくれるのが
彼女にとっての幸せだったんだな
と思ってます。
身近なものから
ここでこの「家庭を大切にする」というのを
少し掘っていきたいのですが、
「家庭を大切にする」ためには、
自分や周りの人の身体に結構気を使わなきゃ
いけないと思っています。
料理を作るのも、
けが人を看病するのも、
寝る場所整えるのも
少し想像すればわかりますが、
居心地のいい場所を作ることは
みんなにとって身体的に心地良い場所を
作ることに他なりません。
では、このような身体的に心地良い
「居場所」はどうやって作るのでしょうか。
それは、
「すでにそこに有るもの」
あるいは
「すでに用意されている状況・場所」
を使って作られます。
自分の手元にあって、
限られた資源や状況の中でやりくりする、
というのがここでのポイントです。
譲ることと配ること
そもそも、みんなにとって身体的に
心地よい場所を作るためには、
あらかじめ誰かが、
誰よりも先に自分の身を置いて
自分の身体が居心地よくなるかどうか
をまずテストしなければいけません。
誰よりも先回りして
場を暖めておくわけです。
お風呂を炊いておくにしても
この季節だから湯加減はどうか、とか
ご飯作るのも今日は疲れてるだろうから
塩加減はこれくらいにしようとか
先にその場に身を置いて、
あれこれ確かめてくれる人が必ず必要です。
自分の身体的な心地よさと
次にその場に来るであろう
相手の身体的な心地よさを同期させながら
暖かい居場所は作られます。
そして、
最後は自分で確かめたその
居心地の良い場所を人に「譲る」わけです。
自分が居たところを
譲ってあげるんです。
あるいは自分が持っていたものを
「配る」こともあるでしょう。
どこか別のところから
調達するのではなくて、
今自分の居るその場所を退いて
相手に「譲る」・「配る」
というのが最大のポイントです。
今現に自分が直面している状況、
持っているものを最大限有効に使います。
居心地のいい場所をつくる人は
みんなこれをやっていて、
河了貂はまさに
この大切さを知っているんだと思いました。
でも、ここで疑問に思うのは、
なぜわざわざ自分で整えた居場所を
人に譲るのか、
そんなの各自で居心地確かめて
全部自分で整えたらいいじゃんー
なんでみんなに譲ることが「幸せ」
なのー?
とか疑問に
思うかもしれませんが、
いえいえ。
譲ること、あるいは
相手に気を配ることによって、
今まで有用性に気づかなかった人やモノ
の有用性に気付けるんです。
これまで冴えなかった人が
光りはじめて、
それまで弱いと思っていた人が
強く輝き出したりする…
場が温められているからこそ、
ゆったりと身体が
「伸びる」ということが起こり、
今まで知り得なかった
誰かの良さが伸びてくるわけです。
この辺りを河了貂はよーく
分かってるんじゃないかと思います。
まとめ
ここで本題の、
「なぜ河了貂の夢にワクワクしたのか」
という話に戻るのですが、
それは信の夢との比較において
現れてくるのでした。
では、信の夢はどうだったかというと
未だ手に入れられていない
「天下の大将軍」を勝ち取ることが
夢でした。
自分の身の丈を超えた、
未だかつて誰も手にしていないものを
得ることでした。
つまり信の夢は自分にないものを
「獲得する」ことで達成される夢です。
それに対して河了貂の夢は
これまで見てきたように、
自分がすでに持っているものを
みんなに「譲る」あるいは「配る」
ことで成し遂げられる夢でした。
そういう意味で信と河了貂は
不思議な関係で、
一緒にいるけれども夢を叶えていくための
やり方が「真逆」だな、と。
夢の叶え方が「真逆」であるにもかかわらず
その二人が目指す先は一緒なので
これからどう活躍していくのか、、、
二人の夢に底流している
この「ズレ」のようなものがどう
折り合いをつけていくのか、
この辺りが楽しみだったから
なんだかワクワクしてきたんだと
思ってます。
追記:軍師の本質
今回は河了貂の家庭的なところ
にスポットを当てました。
でも河了貂は「戦場において」
信と一緒に幸せでありたいと
願ってもいるので
彼女の軍師としての「幸せ」はどうなのか
と思われるかもしれません。
軍師であるならば信のように
「獲得」型なんじゃないかと
思われやすいですが、
個人的に軍師の本質は
「譲ること」にあると思っています。
主人である将軍に、
自分で「温めておいた」戦場を
譲っているわけなので…
軍師ってそういう働きをしている
側面もあるな、と最近気付きました。
なので、
家庭的な河了貂にとって
軍師という役割はぴったりで、
ある意味河了貂にしかできない
幸せになる方法だなと思ってます。
・原泰久『キングダム 36』集英社、2014年
・エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』藤岡俊博訳、
講談社学術文庫、2020年
・内田樹『レヴィナスと愛の現象学』文藝春秋、2011年
※今回レヴィナスの「家」、「女」の理論から発想しました。
もちろんレヴィナスは具体的な家とか女性とか、
経験的な次元の話ではなく存在論的な話をしてるんですが一応参考になったので。
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