先日、不思議な体験をしました。
と言ってもオカルト的な話ではなく、
贈与を受け取るってこういう
ことなのだなぁ~
と思った出来事がありました。
でもまだ十分噛み砕けてない
ような、有り余るほどの贈与だった
ので「不思議さ」が残ったままです。
あと、人と人とが出会うということ
についても考えさせられたので、
それについても
最後に少しだけ触れてます。
精神科で診てもらった時の話です。
事の発端
自分はもしかしたら
「大人のADHD」かもしれない、
ということで精神科に
検査をしに行ってました。
ADHDとは、
発達障害の概念のひとつで、
注意欠陥・多動性障害の略です。
私の場合は注意欠陥性が
疑われて
・仕事に集中できない
・細かい報・連・相ができない
・整理整頓がまったくできない
・人の話はさわりの部分しか聞けない
・仕事の段取りができない
・細かい図や表を集中して読めない
などがあって、
大人になって仕事するように
なってからこれらを
自覚するようになりました。
不注意がすぎるので
職場では
「責任感が無い」
「他人のことを思えていない」
「自分の都合のいいことばかりする」
などと言われることが
多くなり、
なんとかならないかという
ことで医者にかかりました。
上記のような症状は
正直誰にだってありそうな
ことですし、
それほど困っていなければ
医者にかかる必要ないのですが、
もうお客さんや周りに
迷惑かけまくってたので
藁をもつかむ
勢いで医者に行きました。
結論から言うと、
「ADHD傾向がある」ということで
診断というものはおりませんでした。
明確に主治医の先生にどうして
診断できないのか
訊いてはいませんが、
ネットで調べて類推すると、
12歳以下の記録とか通知表を
提出できなかったからだと思ってます。
子どもの頃からずっと発達障害
で困ってたっていう証拠がないと
診断出ないらしい…
まあ、でもこんなものかと
思うことにしました。
ADHDの人ってどこか
診断が欲しくて精神科に
行くことがあると思いますが
私も、
「何故こんなにも仕事が出来ないのか」
を説明してほしかったし、
診断が下りたら具体的な対策が打てるので、
診断が欲しかったんですよ。
でも診断が下りずにおわって
あーあーって感じでその日は
岐路に着きました。
で、帰りの電車でぼーっと
揺られてたところ、
あることを思い出しました。
「診断書はもらえなかったけど
担当の心理士さんが書いてくれた
検査の所見もらったなー」
そう思い出して、
該当の書類をカバンから取り出して
読んでみました。
するとなんとまあ( ゚Д゚)
素敵なお手紙というか
プレゼントというか
私に宛てられた、
私だけに宛てられたその所見には
私が一番欲しくてたまらなかった
言葉が綴られていました。
あまりにも感動的だったので
帰りの電車で独り、
ボロ泣きしてしまいました(´;ω;`)
もうね、完全に一本取られましたね。
とにかく心のメンテナンス
のプロにはご用心。
うっかりしてると私みたいに
恩返しできないほどの
ギフトを受け取ってしまいます…
ADHDの心理検査
具体的に何が書いてあったか
について語る前に、
軽くADHDの検査内容と
私が辿った過程について触れます。
まず精神科の先生のところで受診して、
ADHDっぽいので調べてもらえませんか?
と相談しました。
ここでは、ネットにも載っている
簡単なチェックリストが出されて、
それに答えるだけでした。
で、その簡易的なチェックリストでは
ADHDっぽかったので
もっと詳しい検査しましょう、となりました。
最終的な診断は精神科の先生が
してくださるんですが、
この詳しい心理検査は
精神科の先生が行うものではなくて、
臨床心理士・公認心理師さんが
主になって行う検査とのことでした。
要はカウンセリングとかそういう
ことを担当する方です。
そして、この心理士さん
こそがえげつない存在だった
という話になるのですが…
でも
ひとまず検査の内容に話を戻します。
検査したのは3種類でした。
一つは知能測定のようなものです。
もう一つは日常の困りごとに対して
質問に答えていくもの。
三つ目は親に私の行動に関して
質問用紙を埋めてもらうもの。
この三つでした。
これらを総合して評価する
ので最後「総合所見」という形
の報告書になるわけです。
それで、一つ一つの検査内容ですが、
まず知能を測定するテストは
いわばIQテストのようなものでした。
積み木でパズルしたり、
クレペリン検査みたいなことやったり、
言葉の意味を答えたりといった感じです。
二つ目のテストは質問に答えていく
ものでした。
ADHDの人が日常生活で
どんな問題を引き起こしているか
を聞くもので、
典型的な困りごとの数々が
挙げられます。
あんまり覚えてないんですけど
例えば、
常に机の上には書類が散乱している
…とか
せかされるとパニックになる…
一日に何回もミスをする…
期限はほとんど守れない…
とかそんなような項目を
読み上げられて
「はい」か「いいえ」で答えます。
この二つのテストは
クリニックで心理士さんと一緒に
行いました。
最後、親も巻き込んで行うテストは、
実家に質問用紙を郵送して
チェック項目を記入してもらうという
形を取りました。
今の私と、子どもの頃の私とで
ADHD的な行動があったかどうか
を質問する内容でした。
とまあ、結構盛沢山な内容でした。
そしてこれらの検査を受ける間
どういう気分だったかというと、
若干新鮮ではあったけれど
基本的には無味乾燥な
事務処理をしている感覚でした。
しかも、精神科の先生とは異なり、
心理士さんは保険がきかないので
これらのテストはすべて有料になります。
事務処理して、お金払って、
診断書もらったらスッキリして
バイバイ、、、
そんなものだと思いながら
淡々と検査してました。
でも、これが今思うといけなかった。
脇があまかったんですよ…
所見に何が書かれていたか
それで、
この検査の所見に何が
書いてあったかというところですが、
基本的には知能テストの結果です。
あとは私が不得手な整理整頓・段取りを
上手くやるためのコツ
が紹介されていました。
知能テストは
言語処理能力だけが高くて
その他の能力は平均以下。
段取りするためには一つ一つの
時間を知る必要があって
それを元に計画を立てるといいー
みたいなことが書かれていました。
でも、
そのありきたりで無味乾燥な所見の端に
何としても伝えたいという意志を
感じるような内容が、
一番下にひっそり
書かれていました。
もうそのまま写真を載せます。

ん?
どこがどう胸打つ内容なのか?
と思ったかもしれませんが
表紙にある断り文句と
一緒に見ていただいたら
分かりやすいかもしれません⤵

つまり、心理士さん本人
では決して病名や症状を
断定して語ることはできないんです。
僕は診断する立場にはないですよ~
あくまで主治医の先生の
言ったことが全てですからね~
とはじめに断りを入れている…
にもかかわらず、
病気と断定してすごく
力強く書いているんです。
「決して怠けなどではなく、
病気がそうさせているものです。」
仕事できない困りごとがあるにも
かかわらず、
診断が下りず、
対策に困るであろう患者に対する
せめてものメッセージって感じがして、
ああ~贈与だな~
と思いました。
だって、あんな短時間で
(といっても6時間か)
私が「怠け」「努力不足」
じゃないだなんて分かりっこない。
そんなこと分かるわけないんですよ。
でも分かりっこないにもかかわらず
私がこの言葉で救われるだろうと信じて
えいやとばかりにこう書いてくださった。
主治医の先生が何と言おうが、
精神医学の水準を満たしていなかろうが
服務規程違反に見えようが
(但し書きがあるから違反じゃないけど)
一緒に検査した時間を
決して無駄にはしない、という
意志みたいなものを感じました。
私が吐露した困りごとのすべて
を掬い取って、
私が一番辿り着きたかった
言葉を編んでくれたんだな、と。
たとえ水準を満たしていなくても
あの時間にあの場に
一緒に検査を共有した
あの場こそが
すべてだと言わんばかりに(笑)
私が一番欲しい言葉をメタレベルで
伝えてくださった…
「君はこれまで十分努力してきた。
仕事ができないのは
ADHDという病気のせいです。」
あーまた泣けてきた
甘えている、、、
と思われるかもしれません。
そうです甘えてるんですよ。
甘えてしまう、あるいは
この総合所見を振りかざして
会社につきつけるかもしれない
私が仕事できないのは
病気のせいですって
職場に訴えたり、
これを武器に何かを責めたり、
そういう甘えたことを
私が行ってしまうリスク、
そのリスクがあることも
この心理士さんには十分
分かっていたはずです。
そのリスクがあることは
分かっていた、けれども
どうしても
検査の時間と場を
共有したから
あの時、あの場での
会話や振る舞い
それらすべてから判断して
私を信頼して
この言葉を贈ってくださった。
そして、世界にたった一人だけ
「あなたのせいではない」
と言ってくれる人が居るわけなので
だからこそ私は職場でミスしたら
「それ、全部私の責任です」
って言えるんですよね(笑)
この人が必死に
私のせいではないって
言ってくれている…
だから、「ここはいっちょ全部
自分のせいってことにしてみようか?」
って気分になるんですよ( ´∀` )
ここに責任の立ち上がりとか、
責任感の意味をつなげるのは
乱暴かもしれませんが、
私の「責任感の無さ」(?)を
考えるためのヒントが隠れてそうだなー
とも思いました。
責任に関しては
また別の機会に考えるとして、
次はもっと具体的に、
どんなからくりが潜んでいたのか
みていきたいと思います。
所見が贈与となったのはなぜか
いったい何がどうなって
私はこの総合所見を
贈与と受け取ったのか…
いくつかポイントがあるので
順番に見ていきます。
贈与は交換の「すきま」に生じる
一番のポイントは、
初め、心理検査は単なる「交換」
だと思っていたところです。
お金払って診断もらったら
それで終わりだと思っていた
んですけど、「おまけ」が付いていた。
こちらは心理検査のシステム知り尽くして
無いので、総合所見が手渡される
ものだと思ってなかったんです。
考えてみれば検査なので
もらわなきゃおかしいですけど
診断結果だけにとらわれて
いたので、思いがけない手紙を
貰った感覚です。
こんな感じで、
「これはあくまで等価交換なんだ」
と思っていたところに
思いがけず一人の心理士さんから
血の通った言葉をもらったので
贈与を受けたと感じました。
やっぱり贈与は
交換の「すきま」から
見出されるものだな、と思います。
あとは、バシッと「診断」
が欲しかったんですけど
そこからちょっとズレて
「総合所見」になって渡された
っていうのも贈り物っぽさが
醸し出されていて良いんですよね。
ストレートに欲しいものが渡されたら
交換って感じですけど、
ちょっとズレてるってところに
その人らしさが見えるんです。
そしてこの、「その人らしさ」、
つまりは
「あなた」と「わたし」
の間にだけ発生したもの、という感覚も
無視できないポイントです。
「あなた」と「わたし」?
私たちは、誰かがルールや
社会的な規範を破ってでも
自分に尽くしてくれると、
そこに贈与とか愛とか、
そういったものを見出しやす
くなります。
総合所見を読んだ時、
感動したと同時に、
強烈に心理士さん本人の
言葉だなっていう
生々しさがありました。
しかも、この言葉は他の誰でもない
私だけに宛てられた言葉であるという
感覚も強烈でした。
この「あなた」と「わたし」が
妙に生々しく浮かんでくるのは何故か?
これについては正直
なんでこんなに生々しいのか
まだ整理ついてないんですけど、
おそらくあの「決して怠けなどではなく」
の言葉は論理的な根拠に基づいて
書かれたものではなくて
お互いたまたま偶然
そこに居合わせたことへ
の尊敬のようなもの、、、
あるいは
人と人とが出会う
その存在を確認し合う
こと自体が根拠になっている
のかなと思います。
ん???
自分で言っててよく分からなく
なってきましたが(^^;
私が怠けてない根拠なんて
あの時間の中で提供した覚えないし、
どこまでも人間なんだから
怠惰でないなんて
言い切れるわけない。
だから客観的な根拠に基づいて
書いた訳ではなく、
私が欲しいだろうと思える言葉を書いた。
では何故私の欲しい言葉を
書いてくれたのかというと
私が患者だからなのですが、
ではなぜ私は治療者からの
機械的な報告書だと思えなかったのか?
強いて「根拠」と
言えるものがあるとすれば
すごくどうでもいいささやかな
会話の中にあったんですよ、根拠は。
パズルの問題で一問目から
間違えた時に、お互いに「あーあ」
って空気になったこととか。
検査中に選挙カーが来て
「結果に影響しそうなので中断しますね〜」
と心理士さんが言ってくれたものの、
宣伝が長すぎて
気まずくなったこととか(-_-;)
心理士さんの右側の髪の毛
がちょっと寝ぐせついてたこととか
(本人は気づいてませんけど(笑))
あとは、
検査が終わって私が帰る時、
「今日風強いですね~」
と気にかけてくれたこととか…
そんなどうでもいい
些細なやり取りの全部が
単なる会話ではなく、
お互いの存在を
確認し合うやり取りに思えて、
「あなたはそのままで
そこに居てくれれば良いんだよ」
というメッセージに思えたからなんですよ。
…
それが根拠なのか?って感じで
さっぱり分からないですよね〜
私も分かりません( ̄▽ ̄)
でも、この後私にとって風の強い日は
いつも存在が存在することへの
感謝みたいなもので胸一杯になるんですよ。
まさに存在そのものの
風通しがよくなるみたいな〜
本当に、あの日の強い風は
まさに私という存在そのものへの
贈り物だったんですよ。
所見を読んだあと、
あんなに無味乾燥な灰色に見えた
検査の記憶が、
虹色に輝いて
美しい思い出に変わったので
まぁー驚きました。
そこに居るだけで…
でも結局は単なる治療の一環で、
それほど大した
話ではないのかもしれません。
患者さんはみんなこのような
治療を受けるのだと思います。
ですが、たとえ、ADHDっていう
病気でなかったとしても、
たとえすべて嘘だったとしても、
あるいは、私が真逆の症状を
突然訴えて矛盾していたとしても
(↑これ結構職場でやってます。
矛盾したことやってしょっちゅう
信頼無くします)
私がそこに居て
困りごとを吐露している限り、
どんな内容でも
しっかり伴奏してくれる…
そんな暖かさというか、
やはりそのままでそこに
居ること自体が大事なんだって
いうメッセージがひしひしと
伝わってくる所見でした。
別に、そんなこと考えて
書かれてないかもしれませんし、
本人に問いただしたところで
「そんなこと書きましたっけ~?」
となるかもしれません。
同時に、こんなことに感情移入した
ところで仕事の出来なさは
変わらないんですけど。
でもこういうのが無いと
人間ってのは絶対生きていけない
なーと思いました。
生きていけないけど
この資本主義社会の中では
見出しづらいことだと思います。
現に、職場の上司は
「成長するきざし」とか
「変わろうとする姿勢」とか
が見えないと手助けしないと
言明しているし…
自力でなんとかしないと
「責任感がないヤツ」
とみなされ底辺におきざり
にされます。(→私)
上司が悪者ってわけでもないし、
私も後輩をもったらその
ような語りを強調すると思います。
この資本主義的、
競争主義的な姿勢を
必要としてしまうのは
構造上仕方がないことだと思います。
資本主義社会を批判したいわけでは
ないし、この社会システムの
メリットも十分あることは分かります。
でも、それならあきらめても
良いのか?というとそういう
訳でもないですよね( 一一)
どうしたら、
「そこに居るだけでいいんだよ」
というメッセージを伝えらえるのか。
これについては次章でまとめます。
まとめ
精神科を受診して
所見をもらうまでの体験を
一言で言い表すと、
“まるで思い出が物語のように
編み出されて来た体験”
これが一番しっくりくる
かなと思います。
先程、検査の時に交わした
他愛もない会話の数々が、
贈り物の根拠として
立ち上がって来たと書きました。
一見意味の無いことや、
役に立たないはずのものが
妙に生き生きとしてきて、
私たちの存在そのものの
根幹を支えることがあります。
でもこれを日常的な現場の中で
確認し合うにはどうしたら
いいんでしょうか?
ここのところでカギになるのは
いかにお互いの間で生じた
関係を「物語化」するかだと
思いました。
よく、精神科にかかる人が、
「困りごとに名前(診断)を
つけてくれて安心したー」
とか
「困りごとが形になって
対策が取れてよかったー」
と言われます。
けどそれは私の場合、
いまいち当てはまらなくて、
名前を「付けてもらう」
っていうより
精神科医or心理士さんと一緒に
病名を「編んだ」と言う方
がしっくりくるんです。
どういうことかと言うと、
知能テストの結果がこれこれで…
って言うのは客観的な根拠に基づいて
“組み立てられた言葉”
なんですけど、
それとは違って今回の
「決して怠けなどではなく、
病気がそうさせているものです。」
っていうのは
“編まれた言葉”
に感じられたからなんですよね。
なんとなく形はあるけれども
“組み立て”られるほど
しっかりしてなくて、
そうかといって放っておけない。
そんな些細な要素も
からめとって
治療者と患者が二人で
一緒に物語を編むように
生成してきた言葉なんです。
一つのタペストリーを編むような営み
と言ってもいいかもしれません。
心理士さんと一緒に
「ADHD」っていう
タペストリーを編んだ感じです。
二人で一緒に編んだ
思い出のタペストリーです。
かっちりした根拠はないし、
組み立てる時ほど
しっかりしてなくても
ただなんとなくそこにあったから、
取り込んでおくかー
っていう気軽さで。
「物語」のロジックであれば
一見ムダと思えるものまで
生成させることが出来るわけです。
なので、今回思ったのは、
交換経済が
“組み立てられた言葉”
と相性がいいとすれば
贈与は逆に
“編まれた言葉”
と相性がいいのかもしれないな
と思いました。
「そこに居るだけでいいんだよ」
というメッセージを相手に投げかける時、
それはどストレートな言葉や
きっぱりとした論理を唱えるのではなく
どうでもいいような
何気ない会話を浮かび上がらせる
ことがカギになると思っています。
そして、その浮かび上がらせる
仕方は、
お互いが共有した場で
起こった出来事一つ一つを
思い出として編み出して
さらに生成されてきた
物語を一つの贈り物
にした時かな、と思いました。
最後まとまり悪いですが…
今回の所見では、
この世界はどんな些細なことでも
贈与になるんだ、
ということを改めて実感させられました。
ありとあらゆるものが、
時にはあなたの存在自体が
贈与になりうるんだよ、
って言われているみたいでした(泣)
こんな感じで贈与の見つけ方を
ばっちり学ばせていただいたんですよ。
以上。
結構長めな近況報告でした。
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